17世紀オランダの画家ヨハネス・フェルメールの作品『天文学者』は、2015年のルーヴル美術館展で来日しているので間近で見た方もいらっしゃるかもしれません。
フェルメール特有の静謐さに包まれたこの作品、実は17世紀オランダ絵画の特徴をたっぷり含んでいて、よくよく鑑賞すると様々な事柄を読み取ることができます。
一体どこが17世紀オランダらしいのか、どんな面白さがあるのかを、これから一緒に読み解いてみませんか?
まずはじっくり観察
ではまず作品をよく観察してみましょう。
画面の大きさは51×45cm。
カンヴァスに油彩で描かれています。
作品の舞台はとある部屋の窓辺。
画面向かって左から光がそそぎ、空間をほんのりと明るくしています。
画面中央に人物がいますね。
青い、ゆったりとしたガウンのようなものを着ています。
フェルメールの作品にはよく女性が描かれますが、この人物は男性のようです。
彼が手を伸ばす先には地球儀のような模型が。
机の上には円盤状の物が置かれ、書物が開かれています。
画面奥に視線を移してみましょう。
向かって左の棚と、右の壁面に、何かが掛けられていますね。
人物の真剣な表情や室内の落ち着き、置かれた書物などからは、知的な雰囲気が感じ取れます。
静かに光が煌めく空間には、神聖さすら漂っています。
なぜ彼が天文学者だと分かるのか
置かれた書物や知的な表情の人物を見ると、彼は学者の可能性が浮かんできます。
もっとも、タイトルが『天文学者』なので天文学者なのでしょうね。
ただしフェルメールは、タイトルを見なくても彼が天文学者だと分かるようにヒントを埋め込んでいます。
まずは、人物が触れている球体を見てみましょう。
これは地球儀ではなく天球儀。
天体や星座の位置を表す模型です。
天球儀のすぐ横にある円盤状のものは、アストロラーベという天体観測器。
開かれた書物は、アドリアーンスゾーン・メティウス著『天文学・地理学案内書』。
そして、棚に貼られているのは星座早見表。
壁の絵画は『モーセの発見』を描いたものです。
モーセはエジプト人のあらゆる知識を学んだことから、知識と科学の象徴とされています。
こうして見ると、天文学に関する物が意図的に数多く描かれていることが明らかですね。
フェルメールが意図的に描き込んだこれらのモティーフによって、彼が天文学者だと読み取ることができます。
“天文学者”の17世紀オランダらしさ
ここからは主人公である“天文学者”に注目します。
把握し切れないほど大量に制作されてきた西洋絵画。
聖書の登場人物でも王侯貴族でもない人間が描かれることがあっても不思議ではありませんが、なぜ天文学者が主役になったのか深掘りしてみましょう。
実は“天文学者”は、当時の絵画マーケットや社会情勢を反映した、17世紀オランダならではのモティーフなのです。
宗教画でもなく、国王の肖像画でもなく
まずは画題について。
今でこそ絵画に何が描かれていても驚かなくなりましたが、昔からそうだったわけではありません。
17世紀までのヨーロッパでは、天文学者を主人公に据えるというのはちょっと不思議な選択だったのです。
というのも、画題には明確に“格”があって、描かれるテーマは限られていたから。
王道中の王道はキリスト教絵画ですね。
最も“格”が高いとされていました。
しかしこれは17世紀オランダではあまり流行しませんでした。
なぜなら当時のオランダでは、宗教画を飾ることを良しとしないプロテスタントが国教とされていたため。
宗教画が買われにくい環境にあったのです。
また、その国の王族の肖像画も古くから人気のあるテーマでしたが、国王不在の当時のオランダでは発注されるはずがありません。
有力貴族も少なかったため、飾るために大邸宅が必要な大きな歴史画もあまり売れません。
大教会や国王が買い手にならなかったため、画家たちは豊かな市民層をターゲットに絵画を制作するようになります。
オランダの特徴である平坦な土地や海といった風景、市井に生きる人々、裕福な市民の肖像画、静物など、裕福な市民に人気のあるテーマで、かつサイズの小さな作品が流通していったのです。
フェルメールの『天文学者』も小ぶりな作品で、描かれているのは概ね同時代くらいの生身の人間ですね。
注文主は詳しく分かっていませんが、自宅に飾れるサイズ感や世俗の人間が主人公である点が17世紀オランダらしさと言えるでしょう。
海上貿易で発展するオランダ
イエス・キリストでも国王でもない作品が描かれた理由は分かりましたが、なぜ“天文学者”が目を付けられたのか。
それには17世紀オランダの海洋進出が関係しています。
当時のオランダはヨーロッパの外へと航海を進め、海上貿易で大成功を収めた国として発展していました。
古くからヨーロッパ内での海上貿易が盛んな国でしたが、先行するスペイン・ポルトガルを追うようにして、この時代には以前とは段違いに遠いアジア・アフリカにまで進出していたのです。
運び込まれた香辛料などの品々は高い価値をもち、オランダに莫大な富をもたらしました。
社会に大きなインパクトを与えた海上貿易にとって、天文学は重要な役割を果たしていました。
現代のようにGPSなど存在しなかった当時。
海の上では太陽や星を観測して現在地を知る必要があり、天文学の知識が必要不可欠でした。
つまり、天文学者は海洋進出を彷彿させる、17世紀オランダらしいモティーフなのです。
青いガウンは異国の香り
さて、17世紀オランダの海洋進出をイメージさせる天文学者。
実はフェルメールの作品『天文学者』の中には、その海洋進出がリアルに感じられるモティーフが描かれています。
それは、画中で天文学者が着ている青いガウン。
この衣服はヤパンス・ロック(日本のガウン)と呼ばれた羽織り物で、なんと日本から輸入された綿入りの打掛がもとになっている品なのです。
ヤパンス・ロックはオランダ国内でも生産されるようにはなりましたが、そもそもは遠い異国からはるばるやってきた「舶来品」。
オランダは海上貿易で様々な物資を輸入していましたが、こんなところに描き込まれているのは面白いですね。
知識を広げるのにおすすめの参考書
ここまで『天文学者』をじっくりと鑑賞してきましたが、いかがでしたか?
小さくてシンプルそうに見える作品からも、意外とたくさんの要素が読み取れることがお伝えできたでしょうか。
楽しんでいただけたら嬉しい限りです。
さて、最後にもっと美術史について知りたい方のために、おすすめの参考書を目的別に2冊ご紹介します。
まずは、フェルメールについてもっと知りたい方に『もっと知りたいフェルメール』を。
フェルメールの真筆全点を掲載・解説した書籍で、解説が詳しく分かりやすいのはもちろんのこと、印刷も大きく鮮明でおすすめです。
『天文学者』についても更に深掘りされていますし、関連する『地理学者』も併せて読むとグッと理解が深まります。
そして、オランダの社会情勢に興味が湧いた方には『図説 オランダの歴史』を。
オランダの歴史について、人々が定住し始めた時代から現代まで通して解説してくれている書籍です。
フェルメールの活躍した17世紀の黄金時代は絵画鑑賞に役に立ちますし、水害に悩まされた低湿地オランダがいかにして発展していったのかは、負の側面も含めて面白いポイントです。
ヨーロッパの大陸国家らしく、国境線があっちへこっちへ動きまわり、支配者がフランス系になったりドイツ系になったりと、めまぐるしく変化するのも読み応え満点。
美術書ではないから・・・と倦厭するのがもったいないくらいおすすめできる書籍です。
以上、最後までご覧いただきありがとうございました。